2-aの条件下で2-bのエクササイズをやっても、それでも筋肉が動き出してくれない場合の、ありがちな死角・盲点・ブラックボックス、そしてその突破口について考察していきます。
我々が怒るとき、怒りの科学的成分は90秒以内に血液中から無くなるそうです。すなわち、90秒以上怒りが持続するのは、我々自身が「怒り続けたい」と希望しているからだとか。また、岡田斗司夫氏によれば、デブというのは、デブで居続けるための努力を毎日行っている人々であるらしい。同様に、指が動かない、というのは、指を動かしたくない、と自身が希望し努力しているからに他なりません。指を動かすべく新たな指令を脳から出す必要は無く、余計な指令をやめるだけで良い。ツボに手を入れて、中にある石を握り締め、「ツボから手が抜けなくなった」と泣き叫ぶ前に、まずは石を放せば良いわけです。
人の脳は覚えるためだけでなく、忘れるために努力もしている。赤ん坊の泣き声が理想の発声法であり、幼児の体の柔軟さが究極の身体であるとすると、我々はその理想から離れるために、日々努力を重ねて来たことになります。前は弾けていたのに、今はなぜか指が回らない、というのも、全く同じプロセスでしょう。痛みや突っ張りが発生した際、無理強いを続けることは、良き回路を忘れていく作業に他なりません。筋肉のバランシングは、いったん忘れると、取り戻すのは相当に難儀です。
ポルフィリン症を持つ人々との個人intervews
●動いていても動かなくても感知不能
出来るときは何も考えなくても出来るし、出来ないときは色々工夫しても動かない、というのが筋肉の厄介なところです。動かない元凶を意識の表層に引き摺りだすことが、この奏法論の当初の課題でしたが、本来は、「意識にのぼらないブラックボックス」の内部に問題点を置いたまま、余計な動作をさせないよう、じんわり変質させてゆくのが理想ではあります。
肘を普通に曲げたとき、それは何事もなく「折れ曲がる」だけであって、片一方(内側)の筋肉が収縮して反対側(外側)は伸びている、という「実感」はありません。勝手に伸びたり縮んだりしているだけ。意識されない硬直のために筋肉が動かない――ということは、「滑らかにリラックスしている」と体感している部分が、じつは硬直している、ということです。そしてそれは、意外な部位な筈である。無味無臭だからといって、無毒とは限りません。人間は自分の筋肉を、「思い通りに」コントロールしているわけではない。一旦筋肉の一部がわずかに硬くなると、そのことを自覚する以前に、平気で遠回り指令を出す。その積み重ねが、「指が回らない」状態です。筋肉の動きは感知出来ている筈だ、という思い込みをま� �捨てなければなりません。収縮している筋肉も、そうでない筋肉も、意識の表層には浮き出していないのです。
ある動きを行うために、(A)大枠を支える筋肉、(B)その動作のために縮むべき筋肉、(C)そして何もすべきで無い筋肉があります。弾けているときは、その「支え」や「緩め」はほとんど意識されません。(A)がシュッと屹立していなくても指は回りますが、そこへいつしか(C)が余計な介入を始めたときに、指は回らなくなります。筋肉のストレッチとは、(C)を何もしないままで置くための、神経回路の構築(あるいは再構築)のことです。ある動きに対して、どの筋肉が(A)なのか(B)なのか(C)なのかは、ありとあらゆる側面から自分自身で感じ、探り当てていくしかありません。2-aの「首周りのリラックス」で触れた、三面八臂の阿修羅の喩えを御参照下さい。
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ここで一つの解決法が見出されます。盲点は、どうせ逆側にある、ということです。あるアクションを起こす場合、そのアクションと反対側の筋肉は、本来は何も行っていない筈ですし、また何も行っていないように感じられるものですが、そこを敢えて、「何もするな」という指令を差し加えてみる。たとえば、鍵盤中音域から高音域へ右手を移動させる際、小指先端に集中するのではなく、アクションと逆、すなわち右手の内側(右脇や上腕内側など)の「緩め」に一瞬意識を通す。親指をくぐらせるときは、肘の外側、さらには脇の裏側(背中)に意識を向ける。速く指を回したいときには、鍵盤にがっつくのではなく、掌底を暖かく緩める、というような具合です。何も悪事を行っていないように感じられるブラックボックスのよ� ��な部位に、外側から念入りに「何もするな」と命令を付け加えてみること。見知らぬ側面(例えば背中側)へ向かって力を抜いていく恐怖については、既に述べました。
初学者よりむしろ上級者が陥る罠として、「緩めてはいけない箇所を意図的に緩めてしまう」ケースが挙げられます。背中が痛い。と、背中を「緩め」たくなる。これは良し悪しです。背中側の筋肉で支えるべきモーションのとき、背中を意図的に緩めるのは、悪循環の開始を告げます。ここで行うべきなのは、いわば「痛い」側へあえてもたれかかって、「痛い」のと反対側を可能な限り緩めることです。するとアラ不思議、痛みが消え去ることがある。痛みや突っ張りなど筋肉の緊張が感知された際、勝手知ったる「脱力法」をすぐさま適用するのではなく、一歩踏みとどまって、そのアクションでどこが支え、どこが伸びているかを、今一度考え直してみましょう。
ピアノの演奏は、いわば鍵盤との手押し相撲に喩えられます。相手方の変化を受け流すことがコツです。これは生活態度全般にもリンク出来るでしょう。人の言葉をすぐ個人攻撃と受け止めてイジケているようでは、命が幾つあっても足りません。曰く、「ホッチッチ かもてなや おまえの子じゃなし 孫じゃなし 赤の他人じゃ ホッチッチ 親類になったら かもてんか」。
●筋肉の可動域や組み合わせの再点検
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筋肉のストレッチとは、なにごともなく無抵抗に動く可動域を少しずつ広げていくことです。体の中心線を基準に最短距離で動いていたものが、いつしか奇妙なS字の寄り道を始める。痛み自体は鍼灸や冷却で抑えることが出来るかもしれませんが、「遠回り」癖は自分の脳で矯正するしかない。骨・筋肉・内臓が全てドロドロの液状になったように感じるのは無理にしても、関節をすべてはずして中国雑技団になった「つもりのつもり」を念じるだけでも、存外に変化はあらわれます。因みに、私は生まれてこの方、膝をのばして両手が地面に付いたことが無いほどの体の固さですが、手首の角度と肩甲骨の回転をシンクロさせる程度のことは出来るようになりました。
出発点としてお勧めなのは、延髄周りのストレッチ、とでも言うべきものです(「首周り」ではありません)。2-aで述べたように、カボチャ(頭部)はホウキの柄(背骨)の上で緩やかにバランスを取っているべきですが、このカボチャとホウキの接点あたりが膠着し易い。接点、すなわちカボチャを球体としたときの中心点で、頭を前後・左右・上下にわずかに回転させてみましょう。全音・半音ほどの幅広さではなく、いわば微分音のグリッサンドです。頭を時計回りに回転する、とは、右眼の位置が僅かに右下へ移動し、アゴの位置が僅かに左上へ移動することです。頭を前へ回転させる、とは、アゴを僅かに引き、正面から見て眼が僅かに伏目になることです。慣れないうちは、ちょっと気持ち悪くなってくる、くらいが� �解かもしれません。案外これが難しい。自分の頭の中心点がどこにあるか、を自覚することが、全身のリラックスの起爆剤になると思います。肩甲骨や骨盤の周りのストレッチについては、無料動画も沢山ありますので、ラクに出来るものを試していきましょう。
上記(A)(B)(C)の諸筋肉の役割分担の下拵えとしては、2-aで触れた相撲の「腰割り」(wide-stance squat)のような、呼吸・肩周り・腰周りを同時に連携させるものが良いでしょう。各部位に分割してチマチマと動かすのは、音高・強弱・ペダリングなどをひとつずつ積み上げていく練習法と同程度に不効率です。全てのものは同時に達成されなければなりません。
肩を思い切ってすくめ、それを戻す。その際、すくめた状態(肩が固くなって上にせりあがる)における筋肉の組み合わせを、辞書登録しておきます。練習時に、その硬直の発生を許さないこと。練習が終わったら、いつのまにか上腕が疲れてました、肩が痛くなってました、でも練習したんだから当然、ということでは、進歩はありません。なんとなくの疲れ・痺れは、そのうち(あるいは既に)指周りをブロックします。力が入っている状態と入っていない状態をそれぞれ辞書登録しておくべきなのは、肩以外では、もちろん手首、肘、うなじ、喉元、脇、背中全体、胸、腹、股、膝、膝の裏、脛・・・と多岐に渡ります。
筋肉のよりよい「導通」は、便意や陣痛のように自然発生するものであり、最初は微(かす)かな曙光かもしれませんが、しかしその「一瞬ラク」な状態を見逃さないようにしましょう。起床直前の、日中の緊張から体がほどよく解放され、自然な呼吸状態が持続し、また意識も活性化する頃合いが、一番チェックに良いように思います。取っ掛かりとして、様々なボディワークや機器を使うも良いでしょう。ただ、最終的には自分がどう筋肉を動かすか、という指令回路に関わっているので、そこを直さずして問題の解決は無いことを一刻も早く覚悟すべきです。
●勘違いを直す/イメージ法の功罪
ピアノのレッスンでは、生徒の自主性を尊重して、あえて曖昧にアドヴァイスを与える場合があります。曰く、「もっと明るく」、「もっと夢見て」、「もっと溌剌と」、「もっと悲しげに」。幼少時からレッスン慣れしている生徒にはこれで十分でしょうが、それでもピンと来ない生徒には、勿論幾つかの具体的なトリックを教えるのが教師側の義務となります。
ピアノ演奏の表層上のパラメーター操作に比べて、人間の体の機構は遥かに複雑であり、ある筋肉の状態をイメージで伝えようとした際、混乱の度合いも桁違いです。繰り返しになりますが、筋肉の質は人それぞれ、また筋肉の状態は時々刻々変化するものなので、今日有益だったアドヴァイスが、明日は有害となり得ます。人間の体は人間の体でしかない。カボチャの喩えもホウキもタケコプターも阿修羅マンも、余計な硬直を招くようでは要らぬお節介です。「××みたいなイメージで」、といったアドヴァイスは、すぐその通りに筋肉が動き出す人にとっては天啓でしょうが、そうでない人にとっては腹立たしいだけです。しかし、将来あるプロセスで突如役立つことも大いに有り得るので、一応take noteしておきましょう。
頭の中で描く体の構造と実物との差異を知り、筋肉はこのように動く筈だ、という思い込みを捨て去るために、解剖図解説書に眼を通すのは勿論有益です。いったん手綱を手放すのは不愉快であり恐怖でもありますが、向き合う勇気を持ちましょう。例えば、上腕と前腕が組み合わさっている部分、肘の外側にちょっとした(指半分くらいの)スキマがあることを知れば、もっと小回りに回転出来るようになるかもしれません。肩甲骨を内側に引き付ければ、肩甲骨面(Scapula Plane)は後ろ側に広がる、ということも、いざ鍵盤の白黒模様を目の前にすると忘れがちな点です。肩甲骨が的確な位置さえ取ってくれれば、ピアノ演奏は落下と引き上げの直線運動というよりは、むしろ手首~肘~肩甲骨の連続的な回転運動に感じられて来るでしょう。
もっとも、骨格図を見て直ちに体が自由に動き出すのなら、世の中イチローだらけです。実のところ、解剖図学習もイメージ論の一例に過ぎませんし、早合点は禁物です。筋肉よりは骨をイメージしたほうが早いか、あるいは皮膚の伸び縮みをイメージしたほうが良いのか、はたまた内臓ドロドロ系か、その都度あらゆる方便を駆使しましょう。砂時計の砂、あるいは傾けたコップの水のように、流体が体内を移動していく感覚。あるいは、伸びるべき側の皮膚が伸び、その皮膚を渡りゆく波動の振幅が端っこ(開端)まで伝わり、そして空中へ消え去るイメージ、等々。30秒で可動域が変化する場合と、そうでない場合があります。脱力セッションにお付き合い頂いた方々の中には、背中で合掌出来る程度に体の柔らかい方が何人 もいらっしゃいました。しかし、その柔らかさが、手首と肩甲骨のシンクロにただちに結実するわけでもありませんでした。必要と思っている硬直が不必要であることを悟るには、フラフープをしつつ階段を昇降しながら算盤をはじく程度に、慣れを要するのでしょう。
●バイアス法
体の関節をストレッチする際、[1]ある部分を完全に緩めることによって支える筋肉を探し出す、あるいは逆に、[2]ある筋肉をビシッと固めて(支えて)おいて、他の部分がどこまで緩められるかを調べる、というニ通りが考えられます。
第1部の奏法論で述べた手首・足首ブラブラ法は、[1]に他なりません。2-aで述べた準備態勢、あるいは阿修羅マンに背後から両脇を差し入れられ手首を持ち上げられているイメージ等は、[2]に類します。2つの筋肉を同時にコントロール出来ないことから、一つを固めて一つを緩めていく、という[2]の練習は、一歩間違えると小学生向けハイフィンガーの如く、妙な癖の元凶になりうるので注意が必要です。
[1]としては、手首をブラブラさせる運動を、いつ「支える」筋肉が阻害し出すのか、ポジションを寝る→座る→立つ、の順番に調べていく方法が考えられます。仰臥位(あおむけ)、そして側臥位(横向け)で、手首から先だけを回転、肘をついて回転、肩から先を回転、etc。椅子の背にもたれた場合ともた れない場合で差は生じるか。右足を持ち上げ椅子に乗せて弾いた場合、右肩はラクになるか。立った場合、立って壁にもたれた場合、その違いは、等々。
[2]としては、いわゆる「丹田に力を入れる」のが、よく言われる方便です。体が一番へっこむポイント、例えば尻の穴を締めてみるのも良いでしょう(すぼめ方も色々)。開いた手から第3・4指を折り曲げた、いわゆる「折れ紅葉」との併用も効果的です。(もちろん、「うらめしや」状態に垂れ下がった「折れ紅葉」。)息を吐き切った状態からのアクション、息を吐き出しながらのアクションとの組み合わせ、体・顔の向きと視線とあえてズラすのも、バイアス法の一種です。息が変になってきたら、肺よりも臍の下、鳩尾(みぞおち)、眉間などを意識してみると良いでしょう。誰かに両人差し指で鉄杭のように脇を下から突き刺してもらい、阿修羅に持ち上げられる筋肉をイメージしながら両腕を動かしてみると、脇の どのあたりをグッと締めれば肩周りが支えられるのか、見当が付け易いと思います。
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